No.0557:おばあちゃんの塩むすび
「さだの辞書」
- さだまさし著 / 岩波書店刊
- さだまさし
- 長崎市出身。シンガーソングライター。
- 1973年フォークデュオ・グレープとしてデビュー、76年ソロ・シンガーとして活動。
- 「関白宣言」「北の国から」などヒット曲多数。NHK「今夜も生でさだまさし」のパ―ソナリテイ—としても人気。2015年「風に立つライオン基金」設立。様々な助成事業や被災地支援事業を行う。ときに爆笑、ときに涙の三題噺25話。思い出話や今の関心、次世代への期待に温かな人柄とユーモアが、紡(つむ)ぐ言葉のセンスが光る。多芸多才の秘密も見えてくる。
- さだまさし
〇材木屋の父が没落したのは昭和32年(1957年)の諫早(いさはや)大水害で材木を一切流されてしまって以後のこと。長崎市上町の、部屋が12もあって庭に築山(つきやま)と池のあるような大邸宅から
新中川町の、ジメジメとした台所のほか二間しかない二軒長屋に引っ越したのはちょうど小学校1年生の終わりだった。
狭い家に移った後も、花好きの母は、財布に僅(わず)かに余裕があれば長屋の前の坂道を、天秤棒を揺らしながらゆらゆら上がって行く花売りを呼び止めて仏花、あるいはちゃぶ台に飾るささやかな花などを買い求めた。貧しいけれど不幸せではなかった。
〇祖母は長屋に転居して二年後に寝たきりになったが、母は姑によく仕えた。祖母も「喜代ちゃん、喜代ちゃん」と母をとても愛した。
「婆ちゃん子は三文安い」などというけれどもまさに僕は三文安い婆ちゃん子だった。
幼い頃、家を出て外に遊びに行くとき必ず祖母がついてきた。町内の「まるた」という駄菓子屋の前で祖母は毎日懐から一円札の束を出しゆっくり教えて僕に10枚くれた。10円で森永ミルクキャラメルを買う。これが僕の日課だった。
〇お腹が空くと家に帰り、祖母は僕が命じる形の小さなおにぎりを作った。まん丸、三角錐、サイコロ型、俵形などの塩むすびが僕は好きだった。小学一年生になってすぐの4月10日。父の店の経営は火の車だったはずだが、まだ追い詰められる前生まれて初めて母が僕の「誕生会」を開いてくれた。祖母は優しい笑顔で「まあ坊の一番好きな物をあげるからね」と言った。
毎日10円もくれる祖母が言う「一番好きな物」とは一体どれほど素晴らしい物か想像するだけでドキドキするほどだったがもうこの頃父は祖母にお小遣いを渡す余裕がなくなっていたのだということは大人になって気づいたことだ。
〇当日、小学校の同級生や町内の遊び友達を呼びテーブルに並んだのは母が腕によりをかけたタコウィンナーやポテトサラダ鶏のから揚げにハンバーグ、卵焼きにショートケーキと、まさに子供にとっては満漢(まんかん)全席(ぜんせき)(満州族と漢民族の料理を一堂に揃えた宴席)のようだった。
たくさんの仲間に祝ってもらい、プレゼントが山と積まれたその日期待した祖母からの「大好きな物」とは果たしてテーブルの中央に山と積まれた様々な形の塩むずびであると知ったとき、僕は酷(ひど)くがっかりした。こんなものいつでも食べられるじゃないかとふてくされてなんと手も付けなかったのだ。やがて子どもたちは家の外で遊んだ。
〇僕は遊びを楽しめなかった。祖母の塩むすびに全く手をつけなかったことが頭から離れなかったからだ。慌てて独り家に戻ると薄暗い台所に祖母の背中が見えた。出来るだけ陽気に「ただいまー」と叫び祖母に近づいてみると、祖母は先ほどの塩むすびを茶碗にとり茶漬けにしてたべようというところだった。僕が大きな声で「ああ、お腹空いた、おにぎり食べよう」と言うと祖母は困ったような、やさしい笑顔で言った。
「よか、よか。あんたはお腹一杯だから食べなくていいよ。気を遣わんでいいから。遊んでおいで。
おにぎりはみーんなおばあちゃんが食べるからね」僕は号泣しながら祖母に謝罪し、おにぎりを口一杯に頬張った。涙の味か塩の味か分からなかった。祖母の塩むずびは今でも僕の胸にある。
〇僕はちやほやされるとつけあがる性質で人の痛みに気づかない事があるのだ。そんなときテーブルの向こうに祖母が座るのが見える。にこやかに、優しく、そっと僕の増上慢(ぞうじょうまん)(仏教で、まだきちんとした悟りを得ていないのに、すでに悟っていると思い込んでいる状態を指すことば)を叱りに来るのだ。大人になっても僕が自分で自分の誕生会をやらない理由はこの塩むすびの思い出にある。
祖母がその手で結んだものは「愛」そのものであったと思う。孫の無礼さ、人としての思いやりのなさに対して、怒りをぶつけるのではなく厳しく戒(いまし)めるでもなく、ただただ愛で抱きしめてくれるという叱り方が存在することを教えてくれたのも祖母であった。
〇祖母が亡くなった後は、思い出したように母が祖母の塩むずびを作ってくれることがあった。「おばあちゃんみたいには上手に握られんばってん」と言いながら、妹相手に「三角」「四角」「まん丸」などと作ってくれたものだった。
母の握ってくれる塩むすびは微(かす)かにも桃の花の匂いがした。手肌が荒れて困っていた母が使っていたのが「桃の花」という安価なコールドクリームで、その名前のとおり桃の花の匂いがした。母の塩むすびに付いた桃の花の匂いが本当は嫌いだったけれどもこのことは一度も母に言えなかった。
この長屋暮らしは五年ほどで、長崎市郊外の新興住宅地に移住して新しい一軒家での生活が始まった。父の最も不遇な時期のこの長屋での思い出は、何故か今もみずみずしい光を放ちながら僕の胸の内にある。
〇祖母が亡くなって翌年から、母の猫の額ほどの庭いじりが始まり季節の小さな花が咲いた。次の時の春、近くの川の畔(あぜ)に大輪の深紅の薔薇が一輪咲いていたのを弟と二人で根ごと引き抜き、そのまま母の花畑に植えてみたら驚いたことにその花は根付き、毎年少しずつ花の数を増やした。
その後、僕が歌手になり、ヒット曲が出たあと、FMラジオの「帰郷取材」で十数年ぶりにかつての長屋を訪ねてみた。母の狭い花畑に弟と植えた一輪の薔薇は長い間に巨木に生長し数えきれないほどの深紅の大輪の薔薇が赤い光を放ちながら吹きこぼれるように揺れていた。
やがてその長屋も小さなアパートに建て変わり、あの薔薇の木も消えた。母も父もすでに亡く、時は驚くほど静かに、早く流れていく。
⇒さだまさし氏の祖父・佐田繁治は「スパイ」だったという。
NHKテレビ「ファミリーヒストリー」と言う番組で調べてくれたそうだ。
祖父は、ウラジオストク市内で官憲に追われた時、日本人の経営する料亭に逃げ込んだ。同胞であるという理由だけで咄嗟(とっさ)に繁治を匿(かくま)い気丈に官憲を追い返した女将が後に僕の祖母になったという。
祖母は天草郡下津深江村(現天草市)で生まれ育ち17歳で近在の農家に嫁いだ。姑とそりが合わず家をでたあと兄を頼りにシベリアに渡り、ロシア貴族の賄(まかな)い婦をしながらロシア語を学んだ。ここで福岡県大川市出身の鐘ヶ江正と結婚して、黒龍江支流ゼーヤ川の上流スカバロジナ金山に行商の薬売りとして入り、ここで砂金によって巨万の富を得た。その夫が亡くなったあと料亭を営んでいた。
この料亭「松鶴楼」のひと月の売り上げが現在の1000万以上もあったというから大したものだ。(NHK調べ)
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