No.0622:本人の幸せは本人が決めること
「社会の変え方」
- 明石市長・泉房(いずみふさ)穂(ほ)著 / ライツ社刊
○4つ下の弟が障害をともなって生まれてきたのは、1967年のこと。生まれ落ちた弟の顔は真っ青。
チアノーゼ(酸欠状態)で息も絶え絶え。障害が残ることは明らかだったようで
そんな弟を前に、病院は両親に冷酷に告げました。「このままにしましょう」。つまり「見殺しにしようと」ということです。病院がなぜそんな対応をしたのか。当時、日本には「優生保護法」という法律がありました。「不良な子孫の出生を防止する」つまり、これ以上障がい者を増やさない
ことを目的に、国を挙げて障害のある方に強制的に不妊手術や中絶手術を行う
差別施策をしていたのです。さらに兵庫県では、その法律以上の差別施策が全国に先駆けて
展開されていました。「不幸な子どもの生まれない県民運動」。1966年当時の兵庫県知事が旗振り役となり、そのための組織を県庁内に立ち上げ、力を入れて取り組んでいました。
○障害のある子を「不幸」と決めつけ「そんな子は生まれる前に、ないしは、生まれたらすぐに命を終わらせよう」という運動。今の時代からすれば信じがたいことかもしれませんが歴史的な事実です。兵庫県の運動は1972年まで優生保護法は1996年まで続きました。
○両親は「障害が残ってもいい、家に連れて帰りたい」と懇願した。「障害が残ってもいいのか?」と冷たく説得する病院に両親は腹を括(くく)りました。「覚悟しています」。冷たい社会への「復讐」、この言葉が自分の原点にある気持ちに一番近いように思います。
○命を救われた弟ですが、障害が残りました。2歳のときには、脳性(のうせい)小児(しょうに)麻痺(まひ)で「一生起立不能」と診断されています。その診断後の両親は滅茶苦茶でした。弟を何がなんでも歩かせようと、リハビリの知識などほとんどないのに家の中で弟に歩かせる訓練をはじめました。「とにかく歩け」と無理やり弟を立たせては転び転んでは立たせての繰り返し。ときに弟の膝から血が滲(にじ)んでいました。それでも毎日毎日やり続けました。
その結果だとは思ってはいませんが、「一生歩けない」と言われた弟は4才のときに奇跡的に立ち上がれるようになりました。そして、5才のときには、どうにか歩けるようにまでなりました。なんとか小学校の入学式までには間に合ったのです。弟もこれでみんなと同じ地元の小学校に通える。家族みんなで本当に喜び合ったものです。
ところが、忘れもしません。そんな私たち家族に、行政はこう告げてきたのです。「歩きにくいのなら、遠くの養護学校(現在の特別支援学校)へ行ってください」と。家から養護学校までは、電車とバスを乗り継いでしか行けません。障害があるのを理由に、わざわざ「家から遠い学校に通え」と冷たく言ってきたのです。
「そんなことできるわけないやんか!」啞(あ)然(ぜん)としました。両親は行政に必死に掛け合いました。必死の訴えが届いたのか、トラブルが大きくなるのを避けたかったのかはわかりませんが、なんとか弟の入学は認められました。ただし、条件がつきました。両親は誓約書に一筆書かされることになりました。1つは「何があっても行政を訴えません」。そしてもう1つは「送り迎えは家族が責任を持ちます」。選択の余地はなく、私たち家族は行政から出された条件を受け入れざるを得ませんでした。それでようやく、私と同じ地元の小学校への通学が許されたのです。
○弟の送り迎えは、4つ上の私がすることになりました。両親は朝早くから漁に出てしまっていたからです。私は自分のランドセルとカバンの中に弟の分を合わせた2人分の教科書を入れて弟には空のランドセルを背負わせて毎日通いました。毎日が戦場に赴(おもむ)くような気持でした。正門をくぐったすぐ横にトイレがあり、毎朝そこに着いたら端っこの個室に入って鍵を閉めて、弟のランドセルに教科書を移し替えました。そして「がんばってこいよ」と言って、弟を教室に送り出す毎日でした。
○弟が小学校に入学して間もないころ学校行事で潮干狩りに行く機会がありました。
全校生徒での遠足です。1年生の弟も、5年生の私もみんなと一緒に浅瀬の砂浜へと繰り出しました。なんとか歩けるようになっていた弟ですが、足元は不安定な水を含んだ砂地です。その浅瀬で弟は転んでしまいます。そして、自分で起き上がることができませんでした。水の深さはわずか10センチほどでしたが、弟はそこで溺れてしまったのです。状況を察した私が駆けつけて弟を起こし、大事には至りませんでしたが周りにいっぱい人がいたのに「どうしてすぐに起こしてくれなかったのか」との思いは、拭(ぬぐ)い去れませんでした。
今となっては、誰も悪意はなく、どう対応していいか分からなかっただけなのだと思いますが、そのときは悲しくて悔しくて唇を噛み締めました。帰り道、ずぶ濡れになった弟の手を引いて、2人で家に帰る途中涙をこらえて見上げた曇り空は、今も心に焼きついています。
○歩くのがやっとで、1年生のときに運動会は黙って見ていただけの弟でしたが2年生になり、急に「運動会に出たい」と言い出しました。「そんなもん走れるか」と私は当然のように反対しました。「笑いものにされるだけや」と。ましてや潮干狩りで危ない目にもあっているのです。父も母も止めようとしました。「歩けるようになって、学校に通えて、それで十分やないか。これ以上、周りに迷惑をかけるわけにいかんやろ」。それでも弟は泣きじゃくり「絶対に出たい」と言って、聞き入れません。あまりにも弟が言い張るので、結局、形だけ参加ということで運動会に出ることになりました。
○当日、小学2年生の部の50メートル走で、いよいよ弟が参加する順番。「ヨ―イ」「ドン」とピストルが鳴り、みんなが走り出し次々ゴールに駆け込んできました。私はゴール近くの席に座っていたこともあり全体がよく見渡せるところから見ていましたが弟はヨロヨロとよろけるような動きでまだスタートから10メートルぐらいしか前に進んでいませんでした。「恥ずかしい。みっともない」。そのときの私の正直な気持ちでした。
ところが、弟の顔に目をやったとき、自分の目を疑いました。笑っていたのです。満面の笑みで、うれしそうに。1人取り残されながらも、ゆっくりと前に進んでいたのです。本当にいい顔をしていました。「ええ顔してるな」。これまでに見たことないような笑顔をしている弟を見た瞬間私はそれまでのすべてがひっくり返るような思いがしました。
そして、涙がボロボロと止めどなくこぼれてきたのです。「弟のため」と言いながら、本当のところは
自分が周りから笑われたくなかっただけなのかもしれない。「たとえ恥ずかしくても、みっともなくてもかまわないから弟の気持ちを大切にすべきだったのに」と思うと涙が止まりませんでした。自分のことが情けなく思えて仕方がありませんでした。
たとえ周りに迷惑をかけるかもしれなくても兄として、とことん弟の味方であるべきだったのに。理不尽な冷たい社会に対して、家族として闘ってきたはずなのに。兄として弟のことを理解しているつもりだったのに。「一番冷たかったのは、この自分だったのかもしれない」。そのようにさえ思えてきました。
本人の幸せを決めるのは、他の誰でもなく、本人。親や兄でもなく、本人。本人の人生の主人公は、あくまでもその本人。その後の私のスタンスを決定づけたエピソードの一つです。
⇒泉氏は言う、「『冷たい社会』への復讐を誓ったのは、小学生のころのことだ。こんな冷たい社会の中で、生きていきたくはない。このまち、この社会を少しはやさしくしてから死んでいきたい。子ども心に自分自身に対して、固くそう誓った。以来、怒りの炎を燃やし続けながら生きてきたような気がする」と。
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