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No.0713:ウォルトとミッキーと白雪姫秘話

No.0713:ウォルトとミッキーと白雪姫秘話

ウォルト・ディズニー―創造と冒険の生涯

  • ボブ・トマス著
  • 解説・岡田斗司夫ゼミ
    • 岡田斗司夫氏
      • 1958年生れ
      • 日本のプロデユーサー評論家
      • 文筆家
      • (株)オタキング代表取締役。)

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●第1次世界大戦が終わって、すぐ、ウォルトはフランスへ渡り赤十字社
救急部隊のドライバーとして物資を運ぶことになった。
ウォルトはここで10カ月を過ごしたが、そのあいだ国元に送る手紙に
絵を書き添えるなど仲間内では従軍画家として有名だった。

ミッキー名称は妻の反対から?
初めに思いついた名前はモ―ティマーだった。
けれど妻のリリーが、ちょっと気取りすぎだと言って反対。
そこでミッキーという名に変えることにしたが
ウォルトも親しみやすい響きを持つこの名前が気に入った。

●ウォルトは、映画はトーキー(映像と音楽が同期した映画)であるべきだと
信じ、ミッキーが人気者になることを信じ続けた。
そして彼の期待どおり、映画は大ヒットした。
1928年11月18日に『蒸気船ウィリー』が封切られると、評論家は絶賛。
観客はミッキーを一目見ようと、その声を聞こうと、劇場に殺到した。
陽気なネズミとその創作者は、一躍街の話題となった。

ミッキー像。
主任アニメーター・フレッド・アーム「年齢は決まっていないが
ミッキーは普通の男の子。小さな町に住み、きれい好きで、楽しいことが
大好き。女の子にはシャイだ。物語によっては 礼儀正しくも賢くもなる。
フレッド・アステア風、チャップリン風、ダグラス・フェアバンクス風
(当時の有名映画俳優)のときもあるけど、どんなときでも普通の男の子で
なくてはいけない」。
ウォルトはミッキーについて、
「ヒントはチャップリンからもらっているんだ。人の心に訴える何か。
チャップリンのようにちょっぴりもの悲しさを感じさせる、小さなネズミだ。
いつもベストを尽くそうと一所懸命なおチビさんだ」

『白雪姫』制作秘話。
ウォルトの語りは聞く人を魅了した。
ストーリー会議では物語の人物になりきり、踊りやパントマイムを交えて
演じる。ウォルトなら一流の俳優やコメディアンにもなれたはずだと語る
アニメーターも少なくない。
1934年のある晩、ウォルトはスタッフを全員集め、みんなを前にして
あるおとぎ話をはじめる。ウォルトが身振り手振りを交えてそれぞれの場面、
一人ひとりの登場人物を表現すると、聞く人は『白雪姫』のお話へと
引き込まれていった。

そして1時間半にも及ぶ忘れられないパフォーマンスを終えると
スタッフたちにこう言った。「これは私たちが作る、初めての長編映画に
なるんだ」と。ウォルトの情熱と指導力におされ、750名のスタッフは
ひとつになって『白雪姫』の制作を進める。

○1934年6月3日、ニューヨーク・タイムズは
「ディズニー、長編アニメーション映画『白雪姫』を制作」と報じた。
一方世間では、映画を疑問視する声が高まっていた。
これは「ディズニーの道楽」で、計画は失敗間違いなし
お金のかかった時間の無駄とまで言われた。
1時間半もアニメーションを見続けられる人間などいない
まばゆい色彩で目を痛める、90分も続くギャグに飽きてしまうはず・・・。

○ウォルトは自分と部下の力を信じていた。
だが、黒い噂が映画の今後に悪影響を与えるのではと心を痛めた。
そこで信頼を寄せるハリウッドの編集者ハル・ホーンに相談を持ちかける。
こんな非難にはどう応じればいいのだろうか。

ホーンのアドバイスはこうだ、「何もするな」。
噂になるほど、人々は関心を募(つの)らせ、映画を気にかけてくれるはずだ。
ウォルトはホーンの忠告に従った。

“道楽”とまで嘲笑された映画だったが、公開されるや『白雪姫』は
ディズニーに栄光をもたらした。単なるヒット作ではなく、それまで
制作された映画で最も成功した作品となったのである。
のちにウォルトは、「あの忠告の大合唱はぜひ聞かせたかったね!
1時間半も座りっぱなしでアニメーションを見るものなど
いるわけがないと言われたよ。
『白雪姫』を成功させる方法はたったひとつしかない
『一か八か、全力でやってみること』」と。

次週の「でんごんばん」は、「イェール大学集中講義・思考の穴」アン・ウーキョン著。
花塚恵訳。ダイヤモンド社刊より。心理学の話題満載の本です。お楽しみに。

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