No.0726:絶望を希望で打ち勝った男マイケル・J・フォックスの物語
まず、先週の「OHAGI通信」の「でんごんばん」にいただいたメールをご紹介します。
■「でんごんばん」では、お馴染みの3校の中学校校長経験者。佐賀の熱血教師山田修司さん。
「M社のM・H氏の「OHAGI通信」面白いですね!世間にはいろいろ奥深い人がおられますね。感心しました!「でんごんばん」ネットワーク、凄いです!」
■2校の小学校校長経験者のS・Oさんから
「『この星で生きる理由・過去は新しく、未来はなつかしく』佐治晴夫著。いい本をおしえていただき感謝しています。エッセイのような感じで文章も平易でわかりやすい。」
⇒「OHAGI通信」は興味深い本、新しい発見を伝えてくれています。
■元M電気・専務I・Iさんから
「色の錯覚は面白いですね。例えは悪いですが、美人集団の横にいる普通の女性はそれなりにしか映らないが、美人でない集団の横の普通の女性は実際以上に美しく見えるということでしょうか」
⇒なるほど。でも今は、こういう感想もセクハラになるのでしょうね?(笑)
今週はR5年最後の「でんごんばん」となります。
■R5年発信のなかで、小生が気に入っているもの3つ。そして、小生の大好きな洋画男優の秘話。
●R5年2月23日送信。NO557「おばあちゃんの塩むすび」
・「さだの辞書」さだまさし著。岩波書店刊。さだまさし長崎市出身。
・シンガーソングライター。1973年フォークデュオ・グレープとしてデビュー
・76年ソロ・シンガーとして活動。4600回以上のコンサート開催を誇る。
・「関白宣言」「北の国から」などヒット曲多数。NHK「今夜も生でさだまさし」のパ―ソナリテイ—としても人気。2015年「風に立つライオン基金」設立。様々な助成事業や被災地支援事業を行う。ときに爆笑、ときに涙の三題噺25話。思い出話や今の関心、次世代への期待に温かな人柄とユーモアが、紡(つむ)ぐ言葉のセンスが光る。多芸多才の秘密も見えてくる。
●R5年6月8日発信。NO622「本人の幸せは本人が決めること」
・「社会の変え方」明石市長・泉房(いずみふさ)穂(ほ)著。ライツ社刊より。泉氏の生き方を決めた出来事。
・泉氏はパワハラ発言で辞任したことだけがクローズアップされていますが「明石ででききることは、全国どこでもできる。国でもできる」を合言葉に「全国初」の3文字に、しり込みするお役所文化どっぷりの職員を叱咤激励し取り組んだ内容は素晴らしいものがあり、国が後追いを始めています。
・先日亡くなられた脚本家の山田太一氏(俺たちの旅路、岸辺のアルバムふぞろいの林檎たち等、数々の名作を残した)について以前に出した「でんごんばん」からです。「いつもの雑踏 いつもの場所で」山田太一著より。1985年冬樹社刊。本文の校長先生の決断は、今の小学校ではかぎりなく難しいと思いますが、昭和生まれの小生には、なぜか腹落ちします。
・名画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で有名なマイケル・J・フォックスの秘話です。彼の映画では「摩天楼はバラ色に」(1987年)がお薦めです。元気になれます。
絶望を希望で打ち勝った男マイケル・J・フォックスの物語
●世界的な大ヒット映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に主演した62歳のマイケル・J・フォックスは、今年アカデミー賞功労賞を受賞した。
●マイケル・J・フォックスが成功できた最大の理由は、低い身長です。
3歳年下の弟と遊んでいても双子なのかと言われ同年代の女の子よりもはるかに低い身長でした。
しかし、マイケルには途方もない武器がありました。それはひるまない楽天的な性格です。いじめられても打撃感ゼロの毅然さと余裕を見せたことはもちろん、時には自らの低い身長に対して自虐ネタをしていじめっ子たちさえも大爆笑させていました。
●ただ、高校生になると、誰も自分を男性とは見てくれず、このままでは高校生活最後のダンスパーテイーにも、彼女なしで過ごさなくてはならないと心配し、一計を案じ、男女差が1:9の演劇部に入りました。が、そこは噂以上で、何と男性は自分一人しかいなかったのです。ただ、女性たちは、かわいいと弟のようにかわいがるだけで与えられる役柄も小人等でした。
●しかし、演劇部の先生の目に留まり、12歳児俳優募集という新聞広告を持ってきて、君にぴったりだというのです。マイケルは自分は高校生なのに12歳とはどういうことですかと聞くと、「君ほど賢い12歳はこの世にいない。見た目は12歳でも頭脳は16歳なんだから君は確実に合格する」。そして先生の予想は的中しました。こうして彼はカナダのテレビドラマに主演級で電撃キャステイングされました。
このドラマは「レオ&ミー」という、家をなくした伯父と甥の日常を描いたドタバタシチュエーションコメディドラマでした。ここで人気となったマイケルに、アメリカのハリウッドではよい子役がいないといわれ、「君が行けばきっとそこで通用するだろうと」と。
●高校を中退してハリウッドに行きたいと両親に言うと「そうか、木こりになるには森の中に行かないとな」と言って父親は息子を車に乗せてハリウッドに向かいました。数週間滞在し、いくつかのオーディションを受けて、いくつかの役柄を得ると父は安心して帰りました。
●しかし、エージェントから諸費用を抜いた金では食費もままならずこの時期彼は、ファーストフードに行って使い捨てのジャムなどを大量に持って帰りパサついたパンに塗って食べていました。数年経っても、端役ばかりなので、故郷に帰って、実兄の建設現場で働こうと思っていた頃に、最後に出演したドラマ「ファミリータイズ」というコメディドラマで22歳の年齢で17歳の高校生を演じました。
●このドラマは観客の前でのライブ公演でドラマを収録していました。このため台本のみならず、俳優たちがアドリブで演技する場合が多くありマイケルは、各種アドリブで観客を爆笑の渦に巻き込みました。休憩時間にも観客席に近づき冗談を言っては、観客を盛り上げました。
この姿を見たスタッフは彼のスター性を確信し、彼の比重を大幅に伸ばし本来脇役だった彼を中心になるように脚本も変えました。他の俳優たちもマイケルのアドリブに合わせよう、というほどでした。このドラマは、6年も続く国民から愛されるドラマになりました。
●さて、「IT」や「インディ―・ジョーンズ」等で有名な映画監督ステーブン・スティルバーグ監督からオーダーが来ましたがちょうど、「ファミリータイズ」のシーズン3の撮影もあり難しい状況でした。
マイケルは是非出演したいと、午前9時から6時までは「ファミリータイズ」の撮影をし、夜7時から日の出まではスピルバーグ監督の映画を撮影し、ほぼ2カ月間1日に1時間から2時間横になって寝るだけという地獄のスケジュールをこなしました。
●その映画は、その年世界ボックスオフィス(劇場チケット売り場)1位を獲得した伝説の映画、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。
タイムトラベルのバイブルとなった映画であり、全3作で好評を博しました。第1弾だけでも製作費の20倍を稼ぐ興業成績を挙げました。また、この映画は、実際の未来の予測に成功したものもあります。ARと呼ばれる超現実技術が登場し、ドローン撮影、無人商店、指紋決済システムなどは現代社会でかなり普通に使用されるようになりました。
●実は、マイケルのスケジュールを押さえられないと分かった映画会社はエリック・ストルツという俳優をキャスティングして撮影していました。しかし、撮影が続けば続くほどマイケル・フォックス特有のコミカルな演技がちらつき、結局エリックを主演として半分以上撮影を終えていたにもかかわらず、これまでの撮影分をすべて廃棄し、放送局側にお願いして、マイケルがツージョブで走ることを許されたのでした。
●「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で最盛期を迎え結婚し子どもも授かり順調だったマイケルに異変が起こります。小指の震えが止まらないのです。病院へ行くと、「今後10年後には仕事ができなくなるでしょうという青天の霹靂(へきれき)のような言葉を耳にします」。病名はパーキンソン病でした。
身体が徐々に固まっていく退行性疾患です。普通は高齢者に生じる病気であるだけにマイケルは全くこの事実を受け入れることができませんでした。
診断した医者に震える声で、「私はまだ20代だということを知っているはずです。これは本当なのですか」と何度も聞き返したそうです。
さらに、その年、父親が心臓病で亡くなるという不幸が重なり葬儀場で涙を流しながら棺を抱きしめるマイケルは「この世はひどすぎる」と絶叫しました。
●この日以降、マイケルは笑いを失い、全くの別人になってしまいました。
寝ているときだけが唯一憂鬱(ゆううつ)な気持ちから逃れられると酒に酔って眠るのが日常になりました。それは、10年で身体が固まってしまうということが分かっていても止められる方法が何もないという無力感でした。
●しかし、妻の献身的な介護と対応で、マイケルは再び人生を取り戻してみせることを決心します。
彼は病気に屈することなく、「スピン・シテイ」というコメディの主演を務めこのシリーズは4シーズンも続きました。このドラマで、ゴールデングローブ賞主演男優賞を受賞しました。
だが、病気は冷酷にも速いスピードで悪化していきました。そして、指だけでなく、左手全体も震え始めました。
マイケルは、発症後7年を経て闘病の事実を世の中に明らかにしました。
マイケルの闘病告白はアメリカ社会に多大な衝撃を与えました。
●ところが、病名を公表して以来、体調はすこぶるよくなり今まで病名を隠していたのは何だったのかと思うようになりました。
「全ての問題は認めてこそ初めて克服できる」
という名言も残しています。
●その後、彼は30年以上も現役を続け、各分野で活躍しパーキンソン病患者のための財団まで設立しました。
また、同じ病気を患っていた、ボクシング界伝説のボクサーモハメド・アリと団結し、今日まで、パーキンソン病研究費として2100億円という膨大な研究費を投じました。
●今年62歳でアカデミー功労賞を受賞し、助けられながら舞台に向かう姿はたしかに肉体的には大変そうでしたが自分の病気をギャグ素材として愉快なスピーチも見せました。
「・・・嬉しすぎて手が震えていますね・・・」
●マイケルは30年以上病魔と闘っている原動力は
「感謝の気持ちがあれば、誰でもポジテイブに生きていけます」
だといいます。絶望を希望で打ち勝った男マイケル・フォックスの物語でした。
⇒マイケルが引退を決めたのは、クエンティン・タランテイーノ監督の2019年「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の一場面。
この映画で、落ち目を迎えて苦悩する俳優リック・ダルトン役のレオナルド・デカプリオがセリフを覚えられなくなり、自分の控室に戻り鏡の前で自分に向かって叫びはじめる場面を見て、決意したという。
「私も、鏡を見て、『もう覚えられない。まあいいや、先に進もう』と思ったことがある。そうやってほっとしてきたんです」と。
⇒「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年)は、1980年後半の名画。
すでに38年前の映画。そう、阪神が日本一になった年です。
小生は、大阪に10年以上勤務したので、そういう想い出もご容赦を。(笑)
若い人にも、是非名画として見ていただきたい映画です。
⇒小生は、マイケル・J・フォックスの映画では、「摩天楼はバラ色に」(1987年)が大好きです。楽天的なマイケルの良さが発揮されていて、鑑賞後は元気が出ます。
●さて、今年もあとわずか。今年も「でんごんばん」ご愛読ありがとうございました。
以前に「でんごんばん」でも伝えた「ジャネーの法則」(10歳の子どもの1年は人生の10分の1の10%。60歳の成人の1年は60分の1の1.6%。1年の長さ・重みが短くなる。)ではありませんが、年をとる毎に1年が短く感じます。
小生の場合、これからはさらに転げるように早くなるのでしょうね。(笑)
来年も皆様にとって良い年となりますように祈念しております!
●R6年最初の「でんごんばん」は「R6年1月4日(木)」です。お楽しみに。
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