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No.0733:医は仁術だけではない

No.0733:医は仁術だけではない


今週の「でんごんばん」は
『人はどう老いるのか』医者はホントは知っている。楽な老い方、苦しむ老い方
久坂部羊著
講談社現代新書刊
(Amazonサイトへ)

  • 久坂部羊(くさかべ よう)
    • 1955年大阪府生まれ
    • 小説家・医師
    • 大阪大学医学部卒業
    • 大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)で麻酔科医
    • 在外公館で医務官として勤務
    • 「廃用身」(幻冬舎)で2003年に作家デビュー
    • 「祝葬」「MR」等著書多数
    • 2014年「悪医」(朝日新聞出版)で第3回日本医療小説大賞を受賞

■著者曰く、「本書はこれから老いる人や、すでに老いている人の中である程度、心に余裕のある人に向けて書きました。余裕はあるけれど老いや死についての心配も絶えない。そんな人に読んでいただければと思います」。

■病気治療や健康に関して、医者が特別な能力を持っていないことは医者なら誰でも知っています。多くの同僚や先輩、後輩が、がんになり脳梗塞になり、パーキンソン病になり、心筋梗塞になり、認知症にもなっているからです。

■NO732「直球勝負の老い方指南」
  ⇒誰もが「老い」の初心者。大事なのは予習です。
■NO733「医は仁術ではない」
  ⇒医療も商売(経営)。
■NO734「認知症高齢者に論破される」
  ⇒吉本新喜劇かいな?
■NO735「アルジャーノンに花束を」
  ⇒なにが幸せか分かりません。
■NO736「今を味わいましょう」
  ⇒生涯、準備ばかりをしている?


「でんごんばん」こぼれ話。

  • 故日野原重明氏「人はえてして自分の不幸には敏感なものです」。
    • ⇒逆に言えば、「幸福には鈍感」ということです。幸福に敏感になろう!
  • 死後の世界が存在するなら、はじめの二百年くらいは我慢できるでしょうが二千年、二万年と続くと、退屈のあまり消えてなくなりたくなるのではないでしょうか。それは死に関しても同じでしょう。人はだれでも自分が死ぬことを知っている。だけど、今、死ぬわけではない。そう思っている人は、自分はいつまでも死なないと思っているのと同じだということです。
  • だから、多くの人が死が目前に迫ると、想定外の不安に陥り、焦り、動揺し混乱して苦しむのです。では、どうすればいいのか。
    • ⇒著者曰く、「うまく老い、上手な最後を迎えるためには、いずれも受け入れることが大切なのですが、それがいちばんむずかしいこともわかっています。そして、優秀だった人ほど、老いを受け入れられない」と。幸い小生は優秀ではないので、すんなりと老いを受け入れられそうですが。(笑)

医は仁術だけではない


■「医は仁術」とは言えないシステム

今から思えば、研修医やヒラの医員だったころは私もずいぶんと気楽でした。医学的に正しい治療をしていればよかったのですから。

しかし、多くの医者は年次が進み、部長とか副院長とかになると病院の経営ということを考えなくてはならなくなります。私はそんな肩書きとは無縁でしたが、老人デイケアのクリニックに勤務したときは実質的にある医療法人の雇われ院長の立場でした。当然、はじめは医学的な判断だけで診察をしていました。

ところが、月末になると医療法人から派遣された事務長もやってきて「超音波診断をもう少し増やしてもらえませんか。血液検査も倍ほどしてもらわないと」と言うのです。「検査を増やせと言ったって、必要のない人にするわけにはいかないでしょう」そう突っぱねていましたが、
さらにはこんなことも言い出しました。「抗生剤の○○があと二ヶ月で使用期限を超えますのでなんとかだれかに処方してもらえないでしょうか」「冗談じゃないですよ。使用期限を気にして処方する医者がどこにいるんです。ボクはあくまでも必要な薬しか出しませんよ」まだ40代だった私がそう気色ばむとベテランの事務長は深々とため息をつき、苦渋の表情で説明しました。

「超音波診断機はリースですから、毎年43回以上使ってもらわないと赤字になります。使用期限の切れた薬は廃棄せざるを得ませんから特に高額の抗生剤が廃棄になると大きな損失になります。クリニックの収益は、先生がされる検査と治療からしか発生しないので、先生にお願いする以外にないんです。このままだと、職員の給料も払えません。先生の診療には看護師さんや看護助手さん事務職員の生活がかかっているんです」そこまで言われて、はたと気づきました。自分の正義感だけでまっとうな医療をすることは独善に過ぎないということです。

クリニックが廃業になったら、医者の私はまた次をさがせばいいけれど、何の資格もない看護助手や事務職員は、簡単には転職できないでしょう。そう悟り、患者さんの身体に実害のない範囲で、検査や処方を調整するようになりました。

 

■行方不明者発見の美談のその後

認知症の高齢者で、徘徊などにより行方不明になる人は最近では1万七千人を超えているそうです。
ほとんどの人が一週間以内に見つかりますが、行方不明になったまま死亡して発見される人も、年間、五百人前後で推移しています。

あるテレビ番組で、認知症高齢者の行方不明のドキュメンタリーが放映され、施設で保護されている高齢者がその番組を見た家族からの連絡で身元が分かったことがありました。男性は5年以上行方が分からず、家族は心配していたのですが、たまたま家族が番組を見ていて、身元が確認されたのです。すぐに家族が迎えに来て、感動の再会を果たしたことが伝えられました。誰が見てもよかったと思うでしょう。

しかし、現場を知る私としては、簡単に喜べません。再会は感動的ですが、そのあとがあるからです。まず気になるのは、五年間にかかった施設の費用です。どれだけ請求されるかわかりませんが、民間の施設であれば経費は簡単に無視できないでしょう。家族にとっても、その日から重い介護がはじまります。はじめはいいでしょうが、二年、三年と続くと疲れてきます。介護費用、介護疲れで、虐待に近いことがないとも言えません。行方不明だった本人も、それまで専門の施設でプロに介護されていたのが
家族の介護となると、快適さが減じるのではないでしょうか。テレビはそこまで放映しませんから、視聴者は「よかあったな」で終わりますが当事者の現実は決してそこで終わらないのです。

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